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【OTOAのあゆみ】一般社団法人 日本海外ツアーオペレーター協会の道のり

1964年、日本人の海外旅行自由化と共に誕生したツアーオペレーターは、10年後の1974年、14社により海外ツアーオペレーター協会が設立され、1991年社団法人化となり、21世紀を迎えた。その苦難の道のりをここに紹介する。

日本海外ツアーオペレーター協会沿革史

1964年  4月1日、日本人の海外観光が自由化されるに伴い、主催旅行が相次ぐ。この時点では外資系ツアーオペレーターを中心とした現地手配旅行が行われていた。
日本交通公社(JTB)が解禁と同時に実施した「第一銀行ハワイ観光団」総勢25名(内添乗員2名)が羽田国際空港を出発したのが4月18日。7泊9日の日程でハワイ4島を巡り、旅行費用が36万4千円。当持の大卒初任給が約2万円前後。参加者は3年間に渡り積立預金をして旅行費用を捻出。4月6日出発した欧州旅行は、「まる1年分の給与とボーナスを貯金した」というのが当時の海外旅行事情。
1965年  1960年代初頭に日本で営業活動を開始した欧州系オペレーターに次いで、需要の多かったハワイ対象のツアーオペレーターが活動を開始。
1960年代初頭には、アメリカのアルバートセンを皮切りに、オーバー・シーズ・トラベルカンパニーが日本支社を開設。1961年にはオランダのリソーネ・リンデマン、スイスのホテル・プランが営業を開始。1963年にはオランダのITC・インターナショナル・ツアー図・センターが進出。ハワイ旅行の観光手配を行うオペレーターとしてアイランド・ホリデーズ、トレード・ウィンド・ツアーズなどが相次いで日本事務所を開設。このように創成期における日本人海外旅行幕開け時点のオペレーター業務は、「青い目が教えた海外旅行の観光手配」であった。このため、日本の旅行代理店は頭をさげて高額の旅行手配料を払い、外国のオペレーターに観光手配を委託するしか方法がなかった。添乗する旅行会社の社員自身が始めての海外旅行である場合も多かったのが実情である。
1966年  香港ベースの現地法人である日本旅行社株式会社(現ジェイ・テイ・エイ)などが東南アジア地域の現地旅行手配を開始しており、ローカル・オペレーターと並行して日本人の東南アジアにおけるオペレーションが始動期に入る。
海外旅行志向成長の過程として、初期には憧れのヨーロッパ、そして気楽なハワイ、手近さが魅力の東南アジアという方向性が一般的でした。東南アジアで人気を集めたのが、貿易自由港としてショッピングが魅力の香港、野性的な風土と解放的な男性路線の台湾。
これらアジアに於ける手配に付いても訪問先国の旅行会社へ委託する方式が一般的であったが、同じアジアという共通の土壌であるだけに、日本のツアーオペレーターの進出は比較的早かった。これにより現地オペレーター対日本業者という競合が生まれる。しかし、初期の時点ではローカルオペレーターが圧倒的な強さを保っていたが、大きな相違点があった。バオシンが近ツーの香港のみの手配を行っていたのに対し、JTA(66年設立)は香港を基点に台湾、バンコク、シンガポールなど東南アジア主要都市にも営業拠点を設けチェーンオペレーターとして不特定多社に営業展開を図った。
1967年  日本海外ツアーオペレーター協会加盟各社の設立年度を見ると、この時点での手配地域別では、アジア1社、欧・米4社、豪州1社が記録されているに過ぎない。しかし、多くのオペレーターが活動していたが、業態が未だ確認されていなかったものと見られる。
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1968年  在日ツアーオペレーター間で情報交換と親睦を図るためヨーロッパとアメリカの業者が中心になり、非公式の会合が開かれる。こうした交流が後のOTOA創設の苗木ともなっている。
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1969年  会合は不定期に開かれていたが、外資系オペレーター間に利害関係の対立と業態の相違から、この都市の流会を機に自然消滅の方向に進んだ。
当時のオペレーター業界は外国人が多数占めていたため、会議の公用語に英語が使用されるという特殊性が鮮明に浮出ている。非公式の会合が5、6回開かれた時点で外国人同士の利害の対立から一度流会。1969年の再会合でアメリカン・エキスプレスは海外のオペレーションも行うが、日本国内に於けるリテーラーの機能も持っており、その年の冬に格安ヨーロッパ旅行の設定販売をしたため業者間の対立が深まり、会合は第二回目の流会を遂げている。
1970年  ツアーオペレーター業界は、従来の団体旅行中心の現地手配からパッケージツアーの現地旅行手配にまで職行きを広げる方向に進む。
1970年ジャンボジェット機登場による大量旅行時代、日本のツアーオペレーターの東南アジア進出も急激な成長を遂げている。そして、業務が拡大するにつれ、企業内の核分裂ともいえる独立現象が起きている。日本旅行‹JTA›からは、ニュー・ジャパン・ツアーアウとトラベルスコープの二社が分化した。
1971年  6月22日、旅行業改正に伴うツアーオペレーター業界の対応を協議するため、7社14人が東京ヒルトン・ホテルで運輸省観光部の山下文利業務課長と意見交換の場を持った。この会合は後のOTOA設立のための貴重な伏線となっている。
旅行業法の改正に伴いオペレーター業界はその対応に迫られ、当面は一般旅行業者としての登録が必要か不必要かが焦点。運輸省側もこの業界に対する認識度が低く、当初は一般取得が必要という見解もあったが、オペレーター業界の選択する次の四つの道を示唆。1.一般旅行業許可の取得。2.旅行代理店業認可の取得。3.海外の業者で日本において直営の連絡業務を取扱っている業者は登録不要。4.ホテルやバスレップも3.と同様な条件を備えている場合は不要。と業界に対する対応は「モグリ業者の規制にあり既存業者に対する圧迫ではない」と発言。一方、オペレーターが一般登録を取ると、直接お客を集客出来ることになり、業界の混乱を招くという意見もあり。ともあれ、登録不必要という方向性が出る。
1972年  日本旅行業協会(JATA)に賛助会員制度が制定されたのを機に、ツアーオペレーター14社が加盟。ツアーオペレーターが公式の場で旅行業界に接触を図った最初の行動であった。
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1973年  日本人の海外旅行者数の増加に対し、ツアーオペレーターも増えており、手配地域別に見るとアジア12社、欧・米3社、豪州5社となり、アジア、豪州の増加に対し欧米の退潮が目立つ。
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1974年  8月15日、運輸省、JATAなど周囲からのの要請に応え、旅行業界内におけるツアーオペレーター業者の地位の確保と、同業者間の結束を図るため、主要14社により海外ツアーオペレーター協会(OTOA)が設立され、初代会長に緒方正信(ITC)が選任された。
1974年6月7日、第17回JATA総会にて正会員である旅行会社社長より「現地でトラブルが起きると常に最終責任は旅行主催者側に戻ってくる。こうした不均衡を是正しオペレーター側の責任分担を明確化すべきである。」という悪質なツアーオペレーターについての緊急規制動議が出され、これに対し、オペレーター側は賛助会員であるため発言権はなく、吉村海外旅行常任委員長が「賛助会員との定期的会合を行っており、この種の会合を通じ問題の解決を図りたい」と答弁。こうした感情の食い違いは、両者間の職能の違い、加えて発注側と受注側という力のバランスにより常に内在し、業種として組織化されていないため、地盤が弱体であることも事実であった。こうした、事態を考慮し、吉村海外旅行常任委員長は緒方氏に「JATA賛助会員のツアーオペレーターを組織化して一つの部会きたは協会を作る」ことを奨めている。行政側も掌握がしにくく、事実上"野放し"の状態にあるツアーオペレーター業界が一本化することは望ましいと「任意団体であってもオペレーター協会があれば認識が変ってくる。業法の適用範囲にも変化が出る」として協会の設立を奨めている。だが、ツアーオペレーター業界内部の足並みが一向に揃わない。日本で現地法人営業を行っている外国系ツアーオペレーターが、協会設立によって顧客である旅行会社を刺激し、結果的に営業上の不利を招くことを危惧。こうしたなか、7月にJATAから吉村海外旅行常任委員長名による正式文章で、ツアーオペレーター協会の設立要請がくる。関係者は決断に迫られ、緒方氏はJATAからの文章を英訳し各オペレーターに配布し了承を求め、1974年8月15日、緒方氏のITC事務所にオペレーター各社を召集し、海外ツアーオペレーター協会(OTOA)が正式に発足。しかし、この段階では未加盟の大手、中小オペレーターもいるという問題あり、最初に手がけ仕事は会則の制定と新会員の勧誘であった。台湾観光協会や香港観光協会などから収集した在日オペレーター・リストを基に連絡をすると、いきなり中華料理店が出たり、「この電話は現在使われておりません」といった具合で、郵便物は不在通知で戻ってくる。この時代は在日外国人が片手間で旅行業に介入していた例も多かった。結局、45社中7社の回答にすぎなかった。8月の発足から12月までの間、対象85社に対して44社の加入申し込みを受けたが、法人登記が行われていない会社が多く困難をきわめた。
1975年  1月、緒方正信会長と相原宏昭事務局担当理事が運輸省観光部の佐々木業務課長を訪ね、日本でツアーオペレーション業務を行うため必要条件を確認した。この結果、29社中15社が必要条件を満たすものとしてOTOAへの正式加入が承認された。また、この年には、入会保証金制度の採用について、外資系3社が反発し脱会した。
運輸省の佐々木業務課長より必要な条件について自主指導を受け、その際に提示された営業資格についての条件は次のとうりであった。<必須条件>1.日本国内に法人登記(外国法人または日本法人)してある会社である事。2.加入承認後200万の保証金を納入できる会社であること。<その他の条件>1.日本国内に1000万円以上の資産を有する会社であること。2.及至は海外の本社が資本金2000万円以上の会社であること。3.日本国内の事務所が設立後(登記後)五年以上経過した会社であること。4. 及至は海外の本社が設立後五年以上経過した会社であること。5.日本国内の事務所に最低5名以上の従業員を有する会社であること。6.旅行代理店、ホールセラー、ツアーオペレーター歴10年以上の経験を有する社員を1名以上有する会社であること。7.業界内において、信望ある会社であること。この内容を見ると71年の山下発言とは大幅に変った厳しい条件提示となった。これを受け、審査委員会が行った結果、44社が最終的には15社が残るという厳しいフルイに掛けられたことになる。3月になり、200万円の供託遺志があるリストを持ち運輸省を訪れた緒方会長は、またも行政の180度転換に遭遇。「業法を色々検討した結果、ツアーオペレーターは法務省に200万円供託する必要はない。しかし、ここまで漕ぎ付けたのだから、次の法律改正まで協会で自主規制の方向でやったらどうか」と指導を受け、理事会の結果、用意した200万円の供託金をOTOAの入会保証金に振り替える事に決めた。その意図として、事故が発生した場合、会員の大部分が海外の出先機関のため、本国から緊急送金する必要があるが、外貨規制の厳しい国や手続きに時間が掛かることもあり、急場しのぎに間に合わない。それをカバーするため、発生と同時に役員会了承の元で事故が起きた会員に返却する。さらに必要であれば400万円を貸し付け合計600万円の幅で対応しようと考えた。これに対して、クオニートラベル、ホテルプラン、ワゴンリーの欧州系3社が「事故に対しては自社で対応できるし、自社の入会金で競合相手を助ける必要はない」と反発し、3社連盟で脱会する事となった。
1976年  7月1日、旅行業者費用保険と海外旅行傷害保険の両者を兼ねる「企業包括保険」を協会とAIUが契約した。この年、リスリンド・インターナショナルがOTOAを脱退。この時点を境に、かって日本におけるツアーオペレーション業務の先駆者として活躍した欧州系オペレーターは、独自の道を歩みだした。
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1977年  東京ヒルトン・ホテルで開催された月例会の席上で、新規7社の加入が承認された他、会計年度の変更が行われた。
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1978年  1月、新会長に中村正一(アメリカン・パシフィック社代表取締役社長)が就任。3月、海外ホテル協会(OHEA)との合同会議を開催。当面する諸問題を討議した。
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1979年  新会長に相原宏昭氏(ワールドゲイト・ツアーズ代表取締役社長)、副会長に緒方正信氏(ITC取締役社長)が就任。この他、10人の役員が選任された。相原会長は事業計画の骨子として、OTOAを任意団体から法人化する構想を発表。
1974年は航空機事故多発の年で、3月3日、ロンドン行きトルコ航空DC10がオルリ空港離陸直後に墜落。乗客乗員343人全員が死亡。同機にはジェット・エアー・サービス社主催のヨーロッパ研修旅行団38人が乗っていた。続いて、4月22日、バンアメリカン航空B707がインドネシアのバリ島で墜落。日本交通公社など扱いの日本人旅行者29名を含む乗客乗員107人全員が死亡した。こうした航空機事故がクローズアップされた年であり旅行業界の事故、災害などに対する関心も高まった頃より、OTOAの活動も保険問題に向けられていた。現地で事故が起これば、その直接の当事者となるツアーオペレーターにとってみれば最も身近な問題である。ちなみに当時の事故に対する損害賠償額を流動の多い東南アジアで見ると、バス事故で死亡した場合、台湾で50万円程度、香港で18万円、バンコクもほぼ同じ程度であり、日本の高額な賠償額とは程遠いものであった。
1978年1月に新会長に就任した中村正一氏は任期半ばでハワイへ転任したため、OTOAの会長職は空席となるが、12月に開かれた定例会で1979年度の新会長に相原宏昭氏が就任。事業計画の骨子として、1.任意団体から法人組織の団体にすることを検討。2.オペレーター約款の作成。3.一部不徳オペレーターへの対応として、協会内に苦情係の窓口を儲ける。4.会員数の増大を図る。などの基本政策を打ち出した。
1980年  オペレーション業務遂行のための基準となる基本契約書の作成を古閑陽太郎弁護士(現OTOA顧問弁護士)に依頼。将来的に、統一書式による役務契約書の使用を協会員に図る。
1980年度になるとOTOAの会員も増加し事業計画も整い、徐々に組織としての機能を持ち始めてくるが、未整備の面も残され、その一つとして業遂行上の契約書の不備が問題になり、運輸省側からもこの点を再三指摘され役員会を開いた結果、相原会長のワールドゲイト・ツアーズの顧問であり旅行業法にも精通している古閑陽太郎弁護士に基本契約書の作成を依頼。事務局担当理事として、ミキ・ツーリストの斎藤正規社長室長が就任してこの仕事の当面の責任者として積極的な努力を続けた結果、統一書式による役務契約書を作成し全会員が使用する事になった。当事者であった斎藤氏は、一冊の古い手帳を持っており、そのページ゙には、OTOAの会議開催日時などが克明に記録されている。だが、当時の状況としては事務局が1年ごとに場所を変更していたため、議事録のほとんどが散逸している。
1981年  4月14日、OTOAとJATA東京支部は第1回合同会議を開き、地上手配契約書の問題、消費者対策、保険問題などを議題として活発な討議が行われた。また、年次総会では1982年度の新会長に中西成忠(ミキ・ツーリスト代表取締役社長)氏を選任。新たに副会長2人制をしき相原、緒方の両氏が選任された。
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1982年  運輸省の要請により、1983年施行を予定されていた旅行業法に、協会は従来の任意団体ではなく届出団体となることの討議を行った。これは、法人化に向けた1歩前進を示すものであった。
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1983年  中西会長留任。旅行会社とツアーオペレーターの契約関係を明確化した「海外地上手配契約書」が完成。
1983年施行を予定されていた旅行業法の前年に当たるため、JATAが法改正についての説明会を開催するなど、業界には慌しい空気が漂っていた或る日、突然運輸省の業務課長から電話が有り、「従来は業法内に入れられなかったツアーオペレーターに対し、新たに業務法第二五条を適用するから了承して欲しい」という内容だった。(第二五条 旅行業務に関する取引の公正維持又は旅行業の健全な発達を図ることを目的として旅行業者又は旅行業務に関する契約の実施のための業務に従事する者が組織する団体は、その成立の日から三〇日以内に、運輸省令で定める事項を運輸大臣に届け出なければならない)というもので、簡単に言えOTOAは従来の任意団体から届出団体に変るという事である。業法改正の1983年は会長の任期切れに当たが、この時期の会長交代は好ましくないということで、総会決議により任期が一年延長されOTOA発の特例となった。また、「海外地上手配基本契約書」が日の目を見た意義ある年であった。
1984年  この年の総会では、1985年度の新役員を選出。新会長に緒方正信氏、副会長に中西成忠氏、池沢俊之氏(ツニブラ・トラベル代表取締役)他10人の役員を選出している。
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1985年  協会加盟の会員数は、正会員67社、準会員12社、賛助会員4社の規模に拡大されており、大阪支部の設立構想も浮上している。
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1986年  前年度に引き続き、海外地上手配契約書の使用の徹底、海外交通機関に関する保険についての最調査、事故対策の再検討などの事業計画を推進した。
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1987年  定例会で1988年度の役員人事の改選を行い、新会長に矢島勝美氏(R&Cツアーズ代表取締役社長)を選任、副会長に池沢氏、緒方氏の両名を選任した他10人の役員を選任した。
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1988年  創立15周年を迎える。協会の法人化に対する本格的な取り組みを開始した。
この年の事業計画で最も注目されるのは、協会の社団法人化を目標とした研究会の発足を打ち出した点にある。組織作り完成のための最も強力な方向性であり、会員の総意を結集するため非常に大きな役割を果たす。また、協会の運営を円滑化するため東京港区芝大門に新事務所を設け、専従職員を配置した。
1989年  12月の定例総会で、従来の名称であった海外ツアーオペレーター協会を「日本海外ツアーオペレーター協会」(OTOA OF JAPAN)と改称した。6月13日、関西支部が発足。
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1990年  会長、副会長留任。新役員10人を選任。協会の社団法人化に備え、6委員会(安全対策、広報、研修、経営改善、苦情処理、資格審査)を設置した。また、選任事務局長として吉田功氏(セントラル・エキスプレス)が就任した。
1989年12月の総会では大きな決定が行われた。発足以来使われてきた名称を変更。その意図するところは、翌1990年度中に社団法人化を目指すための準備体制として、団体名、定款の変更手配書を行った。定款の変更では、従来の「200万円以上の資本金または資産を有するもの」という入会資格を「500万円以上の純資産を有する」に変更などの新たなガイドラインを設けている。この時点での会員数は95社、この内、準会員から正会員の昇格会社、入会申請中のものを含めると100社を超える規模となり、社団化が実現した時点では、ツアーオペレーター業界と密接な関係を持つ海外のホテル、バス会社など500社が賛助会員として加盟するものと見込んでおり、団体の規模拡大を意図した布石である。
1991年  8月20日、運輸省より社団法人許可。吉田功氏が専務理事に就任。森田正美氏(運輸省)が新事務局長に就任した。10月29日、「OTOA社団法人設立祝賀会」を東京港区芝の郵便貯金会館で開催。12月、タイ、シンガポールで現地観光関係者対象の教育研修を実施。
協会の目標であった社団法人化は、当初の目標であった3月から、やや遅れ8月20日付けで運輸省の許可を得た。1989年の取り組み以来、悲願達成には約二年半の歳月を要している。当事者にとって日々、憔燥の連続であった。許可が取れてしまえば、それまでの話だがこの間の関係者の苦労は並大抵のことではなかった。OTOA顧問弁護士の古閑陽太郎氏はその実情について「ここ数年来、矢島さんから電話がくると必ず“社団、社団”でした。それも月に四、五回です。」それ程の入れ込みようだったから「私に許可の日付を間違えて連絡してきたんですから」という言葉からも、当時の関係者の興奮状態が推察できる。吉田専務理事は「運輸大臣作成の許可書を前にして、1人で、二、三時間も、ぼーっとしてしまい、席を立てなかったそうです。」
1992年  5月27日、通常総会では従来の事業計画の踏襲に加えて、ツアーオペレーター社員の資質向上を目的とした「主任者資格認定制度」の採用を決め、積極的な取り組みを開始した。12月、シドニーで現地観光関係者を対象とした教育研修を実施した。
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1993年  5月18日、通常総会では新規事業として「海外緊急トラブル対応マニュアルブック」を作成配布する取り組みを開始した。また、旅行業者との取引上発生したトラブルについての相談窓口を開設した。
JATAにおいて「90年代の旅行業法制を考える会」を設置し、旅行業法、旅行業約款の問題点を検討し、研究報告を運輸省に提出した。これを受けた運輸省は「旅行業問題研究会」を7月に発足し、旅行業法改正について検討を始め、これに当たり、ツアーオペレーターについての意見を当協会に求めてきた。協会では日本の旅行産業におけるツアーオペレーターの社会的位置づけや役割等を広く認識せしめ、もって今後の日本の海外旅行産業のあり方等について運輸省やJATA等関係団体に提言することを目的に「ツアーオペレーター旅行問題研究小委員会」を発足させ、渡辺淳二委員長(ウニベルツール代表取締役社長)を始めとする5人(矢島勝美氏、寺田文哉氏、安達要吉氏、松井禎昭氏)の委員が就任し、活発な活動がなされた。
1994年  戦後最も長い不況期に入り、旅行業界もこの不況の煽りをまともに受け、旅行需要の低迷・旅行商品価格の下落、収益の低下という悪循環に悩まされ経営環境は厳しいものとなる。
1993年3月31日現在、正会員数は119社、資本金も1社平均2447万円、社員数は1社平均15.5人となり、正会員の取扱高も1千5百億円を超え、取扱人数220万人となるが、バブル崩壊後の景気後退のあおりを受け、不良債権は1億5千万円を超え、1社平均の不良債権は600万円を超える多額なものとなった。1995年に入っても改善されず、4月1日現在でも29社、85件、1億439万円の支払い遅延が判明。状態打開に向け、5月11日付けの「支払い遅延防止についての要望書」を運輸省、JATAへ提出した。
1995年  5月23日、第4回通常総会が開催され、新たに保険制度委員会と法制委員会が設置される。
新旅行業法の1996年4月施行に向けて「最終作業報告」が10月11日付けで運輸省観光部より発表。これに先立ち、法制委員会では10月3日に緊急委員会を招集し、最終作業報告内容に係るOTOA意見をまとめ、10月4日に運輸省約款委員会にて代表提言をした。変更補償金の支払いが必要となる7項目の内、1.レストランの変更内容 2.お客様の希望による変更ケース 3.宿泊機関の複数表示の内容 4.宿泊施設の設備問題をはじめ、旅程保証の対象外項目(6項目)に「食中毒」が入らないか?等があげられた。また、10月1日より「新OTOAサービス保険」がスタートした。
1996年  5月22日、第5回通常総会が開催され、8年の長きにわたり会長としてOTOAの事業拡大、社団化、諸問題解決に貢献された矢島勝美氏に代わり、新会長に松岡修氏(エーペックスインターナショナル代表取締役社長)が就任。副会長に田仲重門氏と渡辺淳二氏(留任)の両名を選任した他10人の役員を選任した。また、専務理事に斎藤正氏が就任。
4月から新法が施行されると伴い1983年に作成された海外地上手配契約書も新旅行業法の趣旨に沿ったものに見直すこととなり、「OTAO新海外地上手配基本契約書(モデル)」を作成。運輸省、JATA、ANTA、旅行業公正取引協議会などに説明し、「主催用」と「手配用」の2種類を作成。また、安全対策委員会と調査依頼先の幹事会員会社の膨大な作業量の基、海外ツアーオペレーターのための「事故処理対応マニュアル」が完成し7月4日の定例会にて配布された。10月9日には待望の「OTOA資格認定制度研修」第1回が実施された。
1997年  OTOAは公益法人となり7年目を迎え、正会員も150社を数えるに至り、首都、関西圏での活動の軸を他の主要地域へも拡大する必要性が増し、12月3日にOTOA中部支部が設立される。初代支部長には初田憲治氏(キューエイチ・インターナショナル名古屋支店長)が選任された。
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1998年  5月21日、第7回通常総会が開催され、新会長に岡田勝美氏(クリエイティブツアーズ代表取締役)が就任。副会長に井上照夫氏(ユー・ティ・アイ・ジャパン代表取締役)とゲライント・ホルト氏(メデツアーズ代表取締役)の両名を選任した他10人の役員を選任した。
通常総会では「海外の地上手配代金は前払いで!」と題した“OTOAアピール”が採択され、グローバルスタンダードに沿った商取引を求めている海外の諸機関の要望に応え得る道がジャパン・プレミアムを避け、健全で安定した仕入れとサービスの提供が出来、最終的に消費者の信頼を得る為の最善の方法となると強くアピールした。この年は、2月に多額の負債を抱えてジェットツアーが倒産。9月には四季の旅社が倒産した。同社の営業停止時点での会員による同社旅客の取扱い人員は約1057名、38社合計の債権が2億3千326万円に上り、「四季の旅社倒産に伴うOTOA会員の未回収債権等に関する調査結果報告書」を運輸省、JATAに提出した。同社と取引のあった会員の一部は、人道的な見地から進行中のツアーや個人の旅行者に関しては旅行の継続を旅行者の別途負担によるところなく保証した。
1999年  3月24日、正会員30社が営業拠点を有する福岡に、OTOA九州支部が設立される。初代支部長には吉田清宣氏(ミキ・ツーリスト福岡支店長)が選任された。
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2000年  4月21日、最新の海外安全情報をインターネットで発信し、安全な旅を啓蒙するため、OTOAの世界に広がるネットワークを活かした「OTOAドット・コム」がWebサイト上に開設される。
OTOA/GNSS事業は渡辺委員長、谷口副委員長(現委員長)の基、5人の委員長が構想発表より3年余りの歳月を経て、世界80ヵ国245都市・811拠点に広がる国際的ネットワークを活かし、最新の海外安全情報をインターネット発信する。救急車のシステム、病院、日本語を話す医師、薬局、衛生上の注意、紛失物の手続きなどについて都市別に紹介する「海外旅行トラブル対応都市別情報」や、過去に起こった海外旅行中のトラブルを都市別に紹介する「海外旅行トラブル実例集」、地震やハリケーンなど各地で発生した災害の最新情報をタイムリーに知らせる「緊急情報」など、他に類を見ない情報を掲載している。

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