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| 1964年、日本人の海外旅行自由化と共に誕生したツアーオペレーターは、10年後の1974年、14社により海外ツアーオペレーター協会が設立され、1991年社団法人化となり、21世紀を迎えた。その苦難の道のりをここに紹介する。 |
| 1964年 4月1日、日本人の海外観光が自由化されるに伴い、主催旅行が相次ぐ。この時点では外資系ツアーオペレーターを中心とした現地手配旅行が行われていた。 |
| 日本交通公社(JTB)が解禁と同時に実施した「第一銀行ハワイ観光団」総勢25名(内添乗員2名)が羽田国際空港を出発したのが4月18日。7泊9日の日程でハワイ4島を巡り、旅行費用が36万4千円。当持の大卒初任給が約2万円前後。参加者は3年間に渡り積立預金をして旅行費用を捻出。4月6日出発した欧州旅行は、「まる1年分の給与とボーナスを貯金した」というのが当時の海外旅行事情。 |
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| 1965年 1960年代初頭に日本で営業活動を開始した欧州系オペレーターに次いで、需要の多かったハワイ対象のツアーオペレーターが活動を開始。 |
| 1960年代初頭には、アメリカのアルバートセンを皮切りに、オーバー・シーズ・トラベルカンパニーが日本支社を開設。1961年にはオランダのリソーネ・リンデマン、スイスのホテル・プランが営業を開始。1963年にはオランダのITC・インターナショナル・ツアー図・センターが進出。ハワイ旅行の観光手配を行うオペレーターとしてアイランド・ホリデーズ、トレード・ウィンド・ツアーズなどが相次いで日本事務所を開設。このように創成期における日本人海外旅行幕開け時点のオペレーター業務は、「青い目が教えた海外旅行の観光手配」であった。このため、日本の旅行代理店は頭をさげて高額の旅行手配料を払い、外国のオペレーターに観光手配を委託するしか方法がなかった。添乗する旅行会社の社員自身が始めての海外旅行である場合も多かったのが実情である。 |
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| 1966年 香港ベースの現地法人である日本旅行社株式会社(現ジェイ・テイ・エイ)などが東南アジア地域の現地旅行手配を開始しており、ローカル・オペレーターと並行して日本人の東南アジアにおけるオペレーションが始動期に入る。 |
海外旅行志向成長の過程として、初期には憧れのヨーロッパ、そして気楽なハワイ、手近さが魅力の東南アジアという方向性が一般的でした。東南アジアで人気を集めたのが、貿易自由港としてショッピングが魅力の香港、野性的な風土と解放的な男性路線の台湾。
これらアジアに於ける手配に付いても訪問先国の旅行会社へ委託する方式が一般的であったが、同じアジアという共通の土壌であるだけに、日本のツアーオペレーターの進出は比較的早かった。これにより現地オペレーター対日本業者という競合が生まれる。しかし、初期の時点ではローカルオペレーターが圧倒的な強さを保っていたが、大きな相違点があった。バオシンが近ツーの香港のみの手配を行っていたのに対し、JTA(66年設立)は香港を基点に台湾、バンコク、シンガポールなど東南アジア主要都市にも営業拠点を設けチェーンオペレーターとして不特定多社に営業展開を図った。
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| 1967年 日本海外ツアーオペレーター協会加盟各社の設立年度を見ると、この時点での手配地域別では、アジア1社、欧・米4社、豪州1社が記録されているに過ぎない。しかし、多くのオペレーターが活動していたが、業態が未だ確認されていなかったものと見られる。 |
| 1968年 在日ツアーオペレーター間で情報交換と親睦を図るためヨーロッパとアメリカの業者が中心になり、非公式の会合が開かれる。こうした交流が後のOTOA創設の苗木ともなっている。 |
| 1969年 会合は不定期に開かれていたが、外資系オペレーター間に利害関係の対立と業態の相違から、この都市の流会を機に自然消滅の方向に進んだ。 |
| 当時のオペレーター業界は外国人が多数占めていたため、会議の公用語に英語が使用されるという特殊性が鮮明に浮出ている。非公式の会合が5、6回開かれた時点で外国人同士の利害の対立から一度流会。1969年の再会合でアメリカン・エキスプレスは海外のオペレーションも行うが、日本国内に於けるリテーラーの機能も持っており、その年の冬に格安ヨーロッパ旅行の設定販売をしたため業者間の対立が深まり、会合は第二回目の流会を遂げている。
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| 1970年 ツアーオペレーター業界は、従来の団体旅行中心の現地手配からパッケージツアーの現地旅行手配にまで職行きを広げる方向に進む。 |
| 1970年ジャンボジェット機登場による大量旅行時代、日本のツアーオペレーターの東南アジア進出も急激な成長を遂げている。そして、業務が拡大するにつれ、企業内の核分裂ともいえる独立現象が起きている。日本旅行(株)<JTA>からは、(株)ニュー・ジャパン・ツアーアウと(株)トラベルスコープの二社が分化した。
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| 1971年 6月22日、旅行業改正に伴うツアーオペレーター業界の対応を協議するため、7社14人が東京ヒルトン・ホテルで運輸省観光部の山下文利業務課長と意見交換の場を持った。この会合は後のOTOA設立のための貴重な伏線となっている。 |
| 旅行業法の改正に伴いオペレーター業界はその対応に迫られ、当面は一般旅行業者としての登録が必要か不必要かが焦点。運輸省側もこの業界に対する認識度が低く、当初は一般取得が必要という見解もあったが、オペレーター業界の選択する次の四つの道を示唆。1.一般旅行業許可の取得。2.旅行代理店業認可の取得。3.海外の業者で日本において直営の連絡業務を取扱っている業者は登録不要。4.ホテルやバスレップも3.と同様な条件を備えている場合は不要。と業界に対する対応は「モグリ業者の規制にあり既存業者に対する圧迫ではない」と発言。一方、オペレーターが一般登録を取ると、直接お客を集客出来ることになり、業界の混乱を招くという意見もあり。ともあれ、登録不必要という方向性が出る。
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| 1972年 日本旅行業協会(JATA)に賛助会員制度が制定されたのを機に、ツアーオペレーター14社が加盟。ツアーオペレーターが公式の場で旅行業界に接触を図った最初の行動であった。 |
| 1973年 日本人の海外旅行者数の増加に対し、ツアーオペレーターも増えており、手配地域別に見るとアジア12社、欧・米3社、豪州5社となり、アジア、豪州の増加に対し欧米の退潮が目立つ。 |
| 1974年 8月15日、運輸省、JATAなど周囲からのの要請に応え、旅行業界内におけるツアーオペレーター業者の地位の確保と、同業者間の結束を図るため、主要14社により海外ツアーオペレーター協会(OTOA)が設立され、初代会長に緒方正信(ITC)が選任された。 |
1974年6月7日、第17回JATA総会にて正会員である旅行会社社長より「現地でトラブルが起きると常に最終責任は旅行主催者側に戻ってくる。こうした不均衡を是正しオペレーター側の責任分担を明確化すべきである。」という悪質なツアーオペレーターについての緊急規制動議が出され、これに対し、オペレーター側は賛助会員であるため発言権はなく、吉村海外旅行常任委員長が「賛助会員との定期的会合を行っており、この種の会合を通じ問題の解決を図りたい」と答弁。こうした感情の食い違いは、両者間の職能の違い、加えて発注側と受注側という力のバランスにより常に内在し、業種として組織化されていないため、地盤が弱体であることも事実であった。こうした、事態を考慮し、吉村海外旅行常任委員長は緒方氏に「JATA賛助会員のツアーオペレーターを組織化して一つの部会きたは協会を作る」ことを奨めている。行政側も掌握がしにくく、事実上"野放し"の状態にあるツアーオペレーター業界が一本化することは望ましいと「任意団体であってもオペレーター協会があれば認識が変ってくる。業法の適用範囲にも変化が出る」として協会の設立を奨めている。だが、ツアーオペレーター業界内部の足並みが一向に揃わない。日本で現地法人営業を行っている外国系ツアーオペレーターが、協会設立によって顧客である旅行会社を刺激し、結果的に営業上の不利を招くことを危惧。こうしたなか、7月にJATAから吉村海外旅行常任委員長名による正式文章で、ツアーオペレーター協会の設立要請がくる。関係者は決断に迫られ、緒方氏はJATAからの文章を英訳し各オペレーターに配布し了承を求め、1974年8月15日、緒方氏のITC事務所にオペレーター各社を召集し、海外ツアーオペレーター協会(OTOA)が正式に発足。しかし、この段階では未加盟の大手、中小オペレーターもいるという問題あり、最初に手がけ仕事は会則の制定と新会員の勧誘であった。台湾観光協会や香港観光協会などから収集した在日オペレーター・リストを基に連絡をすると、いきなり中華料理店が出たり、「この電話は現在使われておりません」といった具合で、郵便物は不在通知で戻ってくる。この時代は在日外国人が片手間で旅行業に介入していた例も多かった。結局、45社中7社の回答にすぎなかった。8月の発足から12月までの間、対象85社に対して44社の加入申し込みを受けたが、
法人登記が行われていない会社が多く困難をきわめた。
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| 1975年 1月、緒方正信会長と相原宏昭事務局担当理事が運輸省観光部の佐々木業務課長を訪ね、日本でツアーオペレーション業務を行うため必要条件を確認した。この結果、29社中15社が必要条件を満たすものとしてOTOAへの正式加入が承認された。また、この年には、入会保証金制度の採用について、外資系3社が反発し脱会した。 |
| 運輸省の佐々木業務課長より必要な条件について自主指導を受け、その際に提示された営業資格についての条件は次のとうりであった。<必須条件>1.日本国内に法人登記(外国法人または日本法人)してある会社である事。2.加入承認後200万の保証金を納入できる会社であること。<その他の条件>1.日本国内に1000万円以上の資産を有する会社であること。2.及至は海外の本社が資本金2000万円以上の会社であること。3.日本国内の事務所が設立後(登記後)五年以上経過した会社であること。4.
及至は海外の本社が設立後五年以上経過した会社であること。5.日本国内の事務所に最低5名以上の従業員を有する会社であること。6.旅行代理店、ホールセラー、ツアーオペレーター歴10年以上の経験を有する社員を1名以上有する会社であること。7.業界内において、信望ある会社であること。この内容を見ると71年の山下発言とは大幅に変った厳しい条件提示となった。これを受け、審査委員会が行った結果、44社が最終的には15社が残るという厳しいフルイに掛けられたことになる。3月になり、200万円の供託遺志があるリストを持ち運輸省を訪れた緒方会長は、またも行政の180度転換に遭遇。「業法を色々検討した結果、ツアーオペレーターは法務省に200万円供託する必要はない。しかし、ここまで漕ぎ付けたのだから、次の法律改正まで協会で自主規制の方向でやったらどうか」と指導を受け、理事会の結果、用意した200万円の供託金をOTOAの入会保証金に振り替える事に決めた。その意図として、事故が発生した場合、会員の大部分が海外の出先機関のため、本国から緊急送金する必要があるが、外貨規制の厳しい国や手続きに時間が掛かることもあり、急場しのぎに間に合わない。それをカバーするため、発生と同時に役員会了承の元で事故が起きた会員に返却する。さらに必要であれば400万円を貸し付け合計600万円の幅で対応しようと考えた。これに対して、クオニートラベル、ホテルプラン、ワゴンリーの欧州系3社が「事故に対しては自社で対応できるし、自社の入会金で競合相手を助ける必要はない」と反発し、3社連盟で脱会する事となった。
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| 1976年 7月1日、旅行業者費用保険と海外旅行傷害保険の両者を兼ねる「企業包括保険」を協会とAIUが契約した。この年、リスリンド・インターナショナルがOTOAを脱退。この時点を境に、かって日本におけるツアーオペレーション業務の先駆者として活躍した欧州系オペレーターは、独自の道を歩みだした。 |
| 1977年 東京ヒルトン・ホテルで開催された月例会の席上で、新規7社の加入が承認された他、会計年度の変更が行われた。 |
| 1978年 1月、新会長に中村正一(アメリカン・パシフィック社代表取締役社長)が就任。3月、海外ホテル協会(OHEA)との合同会議を開催。当面する諸問題を討議した。
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| 1979年 新会長に相原宏昭氏(ワールドゲイト・ツアーズ代表取締役社長)、副会長に緒方正信氏(ITC取締役社長)が就任。この他、10人の役員が選任された。相原会長は事業計画の骨子として、OTOAを任意団体から法人化する構想を発表。
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1974年は航空機事故多発の年で、3月3日、ロンドン行きトルコ航空DC10がオルリ空港離陸直後に墜落。乗客乗員343人全員が死亡。同機にはジェット・エアー・サービス社主催のヨーロッパ研修旅行団38人が乗っていた。続いて、4月22日、バンアメリカン航空B707がインドネシアのバリ島で墜落。日本交通公社など扱いの日本人旅行者29名を含む乗客乗員107人全員が死亡した。こうした航空機事故がクローズアップされた年であり旅行業界の事故、災害などに対する関心も高まった頃より、OTOAの活動も保険問題に向けられていた。現地で事故が起これば、その直接の当事者となるツアーオペレーターにとってみれば最も身近な問題である。ちなみに当時の事故に対する損害賠償額を流動の多い東南アジアで見ると、バス事故で死亡した場合、台湾で50万円程度、香港で18万円、バンコクもほぼ同じ程度であり、日本の高額な賠償額とは程遠いものであった。
1978年1月に新会長に就任した中村正一氏は任期半ばでハワイへ転任したため、OTOAの会長職は空席となるが、12月に開かれた定例会で1979年度の新会長に相原宏昭氏が就任。事業計画の骨子として、1.任意団体から法人組織の団体にすることを検討。2.オペレーター約款の作成。3.一部不徳オペレーターへの対応として、協会内に苦情係の窓口を儲ける。4.会員数の増大を図る。などの基本政策を打ち出した。
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| 1980年 オペレーション業務遂行のための基準となる基本契約書の作成を古閑陽太郎弁護士(現OTOA顧問弁護士)に依頼。将来的に、統一書式による役務契約書の使用を協会員に図る。
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| 1980年度になるとOTOAの会員も増加し事業計画も整い、徐々に組織としての機能を持ち始めてくるが、未整備の面も残され、その一つとして業遂行上の契約書の不備が問題になり、運輸省側からもこの点を再三指摘され役員会を開いた結果、相原会長のワールドゲイト・ツアーズの顧問であり旅行業法にも精通している古閑陽太郎弁護士に基本契約書の作成を依頼。事務局担当理事として、ミキ・ツーリストの斎藤正規社長室長が就任してこの仕事の当面の責任者として積極的な努力を続けた結果、統一書式による役務契約書を作成し全会員が使用する事になった。当事者であった斎藤氏は、一冊の古い手帳を持っており、そのページ゙には、OTOAの会議開催日時などが克明に記録されている。だが、当時の状況としては事務局が1年ごとに場所を変更していたため、議事録のほとんどが散逸している。
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| 1981年 4月14日、OTOAとJATA東京支部は第1回合同会議を開き、地上手配契約書の問題、消費者対策、保険問題などを議題として活発な討議が行われた。また、年次総会では1982年度の新会長に中西成忠(ミキ・ツーリスト代表取締役社長)氏を選任。新たに副会長2人制をしき相原、緒方の両氏が選任された。
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| 1982年 運輸省の要請により、1983年施行を予定されていた旅行業法に、協会は従来の任意団体ではなく届出団体となることの討議を行った。これは、法人化に向けた1歩前進を示すものであった。
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| 1983年 中西会長留任。旅行会社とツアーオペレーターの契約関係を明確化した「海外地上手配契約書」が完成。
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| 1983年施行を予定されていた旅行業法の前年に当たるため、JATAが法改正についての説明会を開催するなど、業界には慌しい空気が漂っていた或る日、突然運輸省の業務課長から電話が有り、「従来は業法内に入れられなかったツアーオペレーターに対し、新たに業務法第二五条を適用するから了承して欲しい」という内容だった。(第二五条 旅行業務に関する取引の公正維持又は旅行業の健全な発達を図ることを目的として旅行業者又は旅行業務に関する契約の実施のための業務に従事する者が組織する団体は、その成立の日から三〇日以内に、運輸省令で定める事項を運輸大臣に届け出なければならない)というもので、簡単に言えOTOAは従来の任意団体から届出団体に変るという事である。業法改正の1983年は会長の任期切れに当たが、この時期の会長交代は好ましくないということで、総会決議により任期が一年延長されOTOA発の特例となった。また、「海外地上手配基本契約書」が日の目を見た意義ある年であった。
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