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都市別現地だより

台湾 台北 / 台北市内の寺廟 ご紹介(竜山寺)

掲載日時:2002年01月07日

情報提供:アイティオージャパン株式会社

台北市内で歴史が最も古く、信者が最も多くて、年中お線香の火が絶えず、しかも外来の観光客が必ず訪れるお寺は、何といっても竜山寺であろう。
それ故同寺に対しては、特に詳しくご紹介したい。

竜山寺は市の西南方広州街にあり、縦貫鉄道「万華車站」(駅)から2〜300mの距離に位置している。
「万華」の古名は「mankah」で、それは昔そこに住んでいた原住民平埔族の言葉”mankah”(マンカ)からきたもので、その意味は「独木小舟」(丸木舟)のことであり、昔は難しい漢字を使用していたのを日本統治時代になって、同音の「万華」に改められたものである。

*竜山寺建立の経過
竜山寺は1738年(清朝乾隆3年)に建造を開始し、1740年(乾隆5年)に落成した。
当時の白銀2万両以上を費やしたという。

どうしてこの地にお寺が建てられたかということについて下記の伝説が伝わっている。
即ち260数年前、台湾の対岸福建省泉州府からきた商人某氏が、ある日台北から景美方面へ藤の材料を買いに行く途中、今のお寺の付近で休憩した。当時この一帯は広々とした物干し場で、付近には1本の大きな榕樹と一叢の竹やぶがあった。その商人は用足しするため、胸にかけていたお守り袋をはずして竹枝につるしておいたが、用足しの後忘れたまま、そそくさと去ってしまった。
ところがその後、付近の住民が夜、竹やぶから光芒が放たれるのを見て不思議に思い、翌朝竹やぶの中でお守り袋を発見したら、そのお守り袋には筆で「竜山寺観音仏祖」と書かれてあった。
当地の人びとは夜に光芒を放つお守り袋であるから、きっと霊験あらたかであろうと、祈願をかけると不思議にも必ず願いがかなえられたので、その話しが万華の住民達に伝えられ、ついに廟宇建立の議に至ったとのことである。

当時、万華一帯に住む人達は、福建省泉州府下の晋江、南安及び恵安3県からジャンクに乗って移住してきた者が多く、台湾海峡を往来する航海の安全と、事業の発展及び無病息災を祈り、合わせて精神的なよりどころを求める必要があった。そこでその当時最も信者の多かった泉州府晋安県安海郷の竜山寺から「観世音菩薩」(かんぜおんぼさつ)、又は観音菩薩(かんのんぼさつ)の分霊を分けてもらい、ここに台北竜山寺が建立されたのである。

竜山寺はその名の如く、本来は仏教の寺院であるべきなのに、何故後殿には幾多の道教の神様を祀り、又、何故「天上聖母」・・・媽祖の神様が一番位置のよい後殿の中央に陣取っているかというと、竜山寺建立の当初、付近は一叢の竹やぶで囲いもなく、観音菩薩を祀る本殿だけが建立されたのであるが、その後専門に泉州方面と貿易をしていた貿易商50余社が航海の安全を祈願するため、海上の女神である媽祖の廟を建立するの議に至り、申し合わせで毎回貿易額の5%を寄付金として課し、その集めた金で、観音菩薩殿の後側に媽祖廟が建てられたのである。
媽祖廟が何時建立されたかについては、考証の資料が見つからないが、恐らく18世紀末から19世紀の初め(清朝乾隆末期から嘉慶初期)のことであろうと思う。そしてその後、関聖帝君(関羽)や、子授けの神様、学問教育の神様等々が加わり、今日のような仏教と道教の総合寺廟になったのである。

竜山寺はその後暴風雨、地震、果ては第2次大戦中の空襲の被害を受けて、今までに大小数回の修繕や再建の過程を経過してきた。
1) 1815年: 大地震による倒壊のため倒壊部分の再建。
2) 1867年: 強烈な台風による破損のため修繕。
3) 1920〜24年: 白蟻の害による倒壊の恐れがあるため大がかりな修築。
 総面積1826坪のうち建築物の坪数は622坪。
 特色は、今までの寺廟式を宮殿式に改め、全部組立て式で釘やかすがいは1本も使っていないこと、
 石柱や石窓、梁などの彫刻は、完全にのみと金槌で彫った芸術品であること、
 屋上のキリン、鳳凰や竜のような瑞獣や瑞鳥などは磁器で作った芸術品であること。
4) 1945年7月: 米軍機の大空襲のため破損、間に合わせの修繕。
5) 1953年〜59年: 本格的な修繕工事。
6) 2001年に復旧工事を開始し、現在全面的に修繕工事を進めているが、お詣りや参観には差し支えない。
 2002年春に竣工の予定。


※竜山寺
 住所: 台北市広州街211号