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台湾 高雄 / 高雄駅舎が2週間かけて82メートル先に移動

掲載日時:2002年08月30日

情報提供:アイティオージャパン株式会社

1941(昭和16)年6月2日に建設された高雄駅舎が、陳水扁総統の起動によって、8月16日から14日間かけて82メートル先に移動されました。
駅舎は8年後に原来の位置に戻って、博物館として永遠に保存される予定です。

これは、これから進行する高速鉄道、MRT及び地下鉄の共同駅舎の建設のため余儀なく取られた措置で、予算は総工事費2億5千万元(片道1億2千余万元)。
1回に30分かけて40センチづつ移動し、毎日8時間の作業は「世紀の大工程」と称されました。

61年の歴史を有する旧駅舎は総面積630平方メートル、総重量3千5百トン、全台湾で唯一の帝冠式建築の駅舎です。
ちなみに台湾で有名な駅舎は新竹のバロック式、台中駅の自由派、及び台南駅の近代作品などに分けられ、高雄駅だけは1940年代、当時の日本軍国主義の高まりであった影響を受けて、西洋の建築様式を避け、中国唐朝時代の屋根、東洋式彫刻の窓、及びアラビア式の円柱などの一大特色を保持しています。

今回の移動工事は、61年前に建設工事を担当した日本の清水営造会社が請け負い、高雄市政府から同社に当時の工程師を探させたところ、85歳の力丸一栄氏一人だけを探し出し、台湾の招待で台湾でのバレンタインデーに相当する七夕(旧暦7月7日)に令夫人と共に来台し、謝長廷夫人から花束を贈呈されるなど、駅舎の移動式に参加されました。

力丸氏は当時20歳、工業学校を卒業して直ちに清水営造に就職し、間もなく他の9名の工程師と共に台湾に派遣され、4年間の工事中に高雄市との深い縁が結ばれました。
そして長生きしたお陰で61年後の今日、台湾側の招待を受けて旧駅舎の移動式に参加することができたことは夢にすら見なかったことでしょう。

力丸氏の記憶をたどれば、当時の駅舎は甘蔗畠と田圃のどまん中に建てられ、僅かに塩?に通じる小道が一本あるのみ。
その後日本政府の企画により、最も幅の広い昭和通り(現在の中山路)が開通し、さらに前鎮、北鼓山などの地域に発展。
当時日本政府は、極力「大東亜共栄圏」の政策を推進するため、高雄港の優勢な地理条件を具備した高雄市を南進基地として建設すべく努力しました。

高雄空港から市内に入る8車線の道路は、今日では時々交通マヒになることもありますが、当時はいつでも軍用の滑走路に切り替えることができるようにあれだけ広い道路を作ったもので、今日の高雄の発展につながったものです。