メキシコ / メキシコの鉄人が行く! 旅日記 〜 Super Fiesta 400 = 日墨交流400周年 〜 その6
掲載日時:2009年10月23日
情報提供:株式会社メキシコ観光
★その6 --- フィリピン総督のメキシコ人ビベロ伯爵は「大大吉」−その1
※その1〜5は、下記サイトにてご覧下さい。
その1 http://www.otoa.com/news_detail.php?id=15394
その2 http://www.otoa.com/news_detail.php?id=15541
その3 http://www.otoa.com/news_detail.php?id=16047
その4 http://www.otoa.com/news_detail.php?id=16246
その5 http://www.otoa.com/news_detail.php?id=16382
前号では、宣教師 ザビエルは織田信長が天下を掌握する時代に日本に来たことが「幸運」に、一方、メキシコ人 聖フェリペ・デ・へススは豊臣秀吉が天下を掌握する時代に日本来たことで「不運」であったと記しました。
では、徳川時代(江戸時代)初期に、千葉県御宿沖に漂着したフィリピン総督メキシコ人 ロドリゴ・デ・ビベロは幸運?、不運?のどちらなのでしょう。
順番からいくと、ロドリゴ・デ・ビベロは「幸運」で、まさに「大大吉」が待っていたのです。もちろん漂着した事が「大大吉」だったのではありません。
彼は宣教師ではなかったので、殉教から聖人にはならなかったのですが、徳川家からメキシコ帰国用の船まで用意してもらうという破格の待遇を受け、1610年、無事にメキシコへ生還したのです。その後、メキシコで出世を極め、子爵と伯爵という2つの称号を受けるにいたったのです。72歳に亡くなるまで、バリバリの現役だったといいます。
当時の72歳といえば長寿ですし、メキシコ人聖 フェリペ・デ・へススが24歳で殉教した事に比べれば、かなりラッキーなのではないでしょうか。
どうして、ここまでラッキーだったのでしょう? その答えは、やはりロドリゴ・デ・ビベロ伯爵が出会った日本の時期が良かったのです。
彼が千葉県御宿沖に漂着した1609年は、関が原の戦い(1600年)の9年後、1637年長崎「島原の乱」から1639年「鎖国」に至る前の時期にあたります。
1637年の長崎「島原の乱」以前の江戸幕府には「鎖国」の思考は毛頭なく、むしろ南蛮貿易推進、出来ればフィリピンを経由しない、メキシコ〜日本間の二国間直接貿易を希望していたほどでした。それは二国間直接貿易の方が利潤が高いためです。
このビベロ伯爵の漂着は、伯爵を通してメキシコのスペイン副王に江戸幕府の希望を直接伝えられる、絶好のチャンスだったに違いありません。実際に江戸幕府は希望の一つとして、世界的銀産出国 ヌエバ・エスパーニャ(「新スペイン」の意味で、当時のスペイン領メキシコの呼び名)の優秀な精錬技術工を50人ほど日本に送ってほしいと頼んでいるのです。当時、銀産出国だった日本が狙ったのは、技術革新だったのでしょう。
江戸時代というと、「鎖国」という言葉がすぐに頭に浮かんで来るでしょうが、江戸初期、1637年の「島原の乱」以前は、むしろ海外貿易、先端技術導入型の開かれた国造りに熱心だった事がわかります。
このタイミングでビベロ伯爵が日本に漂着したのですから、江戸幕府が伯爵一行総勢317人を精一杯もてなした気持ちは、充分理解出来ましょう。事実ビベロ伯爵も後日、彼の記した「日本見聞記」の随所に、江戸幕府への感謝の気持ちを述べているのです。
その7に続きます。 どうぞお楽しみに!!!
(この記事は、メキシコ国立自治大学(UNAM大学) 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)
※その1〜5は、下記サイトにてご覧下さい。
その1 http://www.otoa.com/news_detail.php?id=15394
その2 http://www.otoa.com/news_detail.php?id=15541
その3 http://www.otoa.com/news_detail.php?id=16047
その4 http://www.otoa.com/news_detail.php?id=16246
その5 http://www.otoa.com/news_detail.php?id=16382
前号では、宣教師 ザビエルは織田信長が天下を掌握する時代に日本に来たことが「幸運」に、一方、メキシコ人 聖フェリペ・デ・へススは豊臣秀吉が天下を掌握する時代に日本来たことで「不運」であったと記しました。
では、徳川時代(江戸時代)初期に、千葉県御宿沖に漂着したフィリピン総督メキシコ人 ロドリゴ・デ・ビベロは幸運?、不運?のどちらなのでしょう。
順番からいくと、ロドリゴ・デ・ビベロは「幸運」で、まさに「大大吉」が待っていたのです。もちろん漂着した事が「大大吉」だったのではありません。
彼は宣教師ではなかったので、殉教から聖人にはならなかったのですが、徳川家からメキシコ帰国用の船まで用意してもらうという破格の待遇を受け、1610年、無事にメキシコへ生還したのです。その後、メキシコで出世を極め、子爵と伯爵という2つの称号を受けるにいたったのです。72歳に亡くなるまで、バリバリの現役だったといいます。
当時の72歳といえば長寿ですし、メキシコ人聖 フェリペ・デ・へススが24歳で殉教した事に比べれば、かなりラッキーなのではないでしょうか。
どうして、ここまでラッキーだったのでしょう? その答えは、やはりロドリゴ・デ・ビベロ伯爵が出会った日本の時期が良かったのです。
彼が千葉県御宿沖に漂着した1609年は、関が原の戦い(1600年)の9年後、1637年長崎「島原の乱」から1639年「鎖国」に至る前の時期にあたります。
1637年の長崎「島原の乱」以前の江戸幕府には「鎖国」の思考は毛頭なく、むしろ南蛮貿易推進、出来ればフィリピンを経由しない、メキシコ〜日本間の二国間直接貿易を希望していたほどでした。それは二国間直接貿易の方が利潤が高いためです。
このビベロ伯爵の漂着は、伯爵を通してメキシコのスペイン副王に江戸幕府の希望を直接伝えられる、絶好のチャンスだったに違いありません。実際に江戸幕府は希望の一つとして、世界的銀産出国 ヌエバ・エスパーニャ(「新スペイン」の意味で、当時のスペイン領メキシコの呼び名)の優秀な精錬技術工を50人ほど日本に送ってほしいと頼んでいるのです。当時、銀産出国だった日本が狙ったのは、技術革新だったのでしょう。
江戸時代というと、「鎖国」という言葉がすぐに頭に浮かんで来るでしょうが、江戸初期、1637年の「島原の乱」以前は、むしろ海外貿易、先端技術導入型の開かれた国造りに熱心だった事がわかります。
このタイミングでビベロ伯爵が日本に漂着したのですから、江戸幕府が伯爵一行総勢317人を精一杯もてなした気持ちは、充分理解出来ましょう。事実ビベロ伯爵も後日、彼の記した「日本見聞記」の随所に、江戸幕府への感謝の気持ちを述べているのです。
その7に続きます。 どうぞお楽しみに!!!
(この記事は、メキシコ国立自治大学(UNAM大学) 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)
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