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メキシコ / メキシコの鉄人が行く! 旅日記 〜 「タイルの家」の物語−その7(最終回)

掲載日時:2008年11月28日

情報提供:株式会社メキシコ観光

これまで6回にわたりお届けしてまいりましたメキシコが誇る文化遺産「タイルの家」の話も、大変残念ではありますが、今回が最終回となります。

(これまでのお話は、下記URLをご参照ください)
 第1話 http://www.otoa.com/home/news_ditail.php?serial=13785
 第2話 http://www.otoa.com/home/news_ditail.php?serial=14056
 第3話 http://www.otoa.com/home/news_ditail.php?serial=14223
 第4話 http://www.otoa.com/home/news_ditail.php?serial=14426
 第5話 http://www.otoa.com/home/news_ditail.php?serial=14619
 第6話 http://www.otoa.com/home/news_ditail.php?serial=14750


ビベロ伯爵の報告書には、読む者に不思議な感じを起こさせる箇所が多々ありますが、ここで取り上げる日本の地名もその一つです。
彼は「江戸」を“Yendo”、駿河を“Surunga”と記録しているのです。
これは単に彼の聞き間違いなのでしょうか? もし聞き間違いではないとしたら、江戸(Edo)が“Yendo”、駿河(Suruga)が“Surunga”とした理由は何なのでしょうか?
それは、当時の日本人がこの様に発音していたからであって、彼の聞き取りは正しかったのです。
実は言葉の発音は不変ではなく、時代を経るにつれ変化するものなのです。では、ここにその有名な例を一つ挙げてみましょう。
現在の「母」=ハハはその昔「パパ」でありました。とは言っても別に性転換した訳ではなく、これは音韻変化の故なのです。
今の「ハ」の音ですが、平安・鎌倉時代には「パ」(Pa)と発音されておりました。それが室町時代に入り「フ」(f)と変化し、その後、江戸時代に「ハ」(ha)音になり現在に至っています。

では、テープレコーダーの無いこの時代の発音をいかにして突き止めたかというと、その方法は大きく分けて二つあるのです。
1) 一つは、古文書から現在の「ハ」音が記されている箇所を捜し出し、その発音についてコメントしている部分から、どんな音だったかを予測する方法です。例えば、古い「なぞなぞ」に「母には二度会えて、父には一度も会えないもの、なあに?」=答えは「唇」というのがあります。
つまり、唇は「母」を発音する時に、唇上下が二度触れ合う事から「母」の発音は「パパ」であったことがわかるのです。
2) 二つ目の方法は、室町時代以降のキリシタン宣教師である欧米人の日本語のローマ字表記の記録から、当時の発音を推測するものです。
室町時代の「ハ」音は全て「f」で書かれおり、その後、江戸初期の英国人 コックの日記には「h」で記されています。(「箱根」=“Hacomey”)
つまり現在の「ハ」音は「パ」→「フ」→「ハ」という変化の結果なのです。

同じ方法で「江戸」“Yendo”について見てみましょう。まず気付いた点としては、古代の日本には“e”音が三つあり、区別されて発音されていた事です。(ア行、ヤ行、ワ行の“e”、“Ye”、“We”)
平安時代の紀貫之の文には、ア行“e”を「衣」、ヤ行“Ye”を「江」と書き分けています。ワ行“We”も他の古文書によって書き分けが発見出来ます。
それが平安末期になりヤ行“Ye”に統一され、ア行とワ行の“e”、“We”の文字は消えしまっています。室町時代のキリシタン文献にも全て“Ye”で記録されております。この時代の政治の中心は関西にありましたので、ビベロ伯爵も中心地の発音に基づき“Ye‐ndo”と書き写したのでしょう。
それが今、何故“e”と発音されるようになったかは、中心地が江戸に移り関東方言の“e”に変化したからなのです。しかしこの発音は「ぞんざいな言い方」であってあまりマネすべきものではない、と当時の文献ではコメントしています。
紀貫之が“Ye”を「江」と書いている事から見ても「江戸」の「江」は“Ye”であったことがわかります。
次に“Ye‐ndo”の“ndo”、“Suru‐nga”の“nga”についてはどうかというと、上代から室町時代まで「ガ行」と「ダ行」は鼻音で発音され、“nga”、“ndo”が正音であったという記録があります。それが東国方言、かつ江戸庶民の「歯切れのいい」“ga”、“do”に変化し定着した模様です。

つまりは、ビベロ伯爵の書いた“Yendo”と“Surunga”の言い回しは、当時の正統な発音の記録であって、聞き間違いではありませんでした。
メキシコでは「屏風」(びょうぶ)を“Biombo”と言いますが、これはフィリピン経由でメキシコに渡った時の発音を、当時のまま残しているのかもしれません。又“Guarache”(ワラッチェ)も日本語の「わらじ」が語源であったかもしれないのです。
日本語も品物と共に海外へ渡ったのでしょうが、反対に日本へ入って来た言葉もあります。
1543年に種子島に火縄銃と共に漂着したポルトガル商人が、日本人が出会った初のヨーロッパ人であり、その後ポルトガル語が商品と共に輸入されました。間もなくフランシスコ・ザビエルを筆頭に、イエズス会派宣教師が来日し、ポルトガル語は当時の流行語になりました。
実は古い日本語だと思っていた言葉が、ポルトガル語だったりする事があるのです。例を挙げると「サラサ」、「ラシャ」、「じゅばん」、「こんぺいとう」等です。
その他には、今ではすっかり日本語になり漢字まで当てられていて、ポルトガル語だったとは知らずに使われている言葉もあります。例えば「合羽」(カッパ)、「歌留多」(カルタ)、「煙草」、「南瓜」(カボチャ)、「亜鉛」(トタン)、「カステラ」、「パン」、「フラスコ」、「ブランコ」もポルトガルから品物に伴って入ってきた言葉です。
又、ポルトガル語の中には今の私達の生活の中に生き、毎日使われているものもあります。それは「どうも、ありがとう」という言葉なのです。これは、ポルトガル語の
「ムート・オブリガード」から由来し、ポルトガル宣教師が盛んに言った事から室町時代の流行語になったらしいのです。
又、「ムート・オブリガード」は、武士語の「有難い」に発音も意味も似ている事から、すっかり日本語として定着し、現在ではポルトガル語と疑う事なく「どうも、ありがとう」と言い交わしているのです。

1590年に活字印刷機がポルトガルより持参され、ローマ字活字本が出版され始めます。1603年には、日本語・ポルトガル語辞典が宣教師により作成〜出版され、その後1630年にスペイン語に訳され、日西辞典となって世に出ています。
ポルトガル人のロドリゲスは、1577年に日本に来てから通訳として活躍し、日本語を体系的にまとめた「日本文典」を執筆、その後、マカオで日本語の方言も含め当時の日本語全般についてとりまとめた「日本小文典」を書いています。
杉田玄白の「蘭学事始」が世に出る200年以上も前の事でした。

おわり



(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)

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