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メキシコ / メキシコの鉄人が行く! 旅日記 〜 「タイルの家」の物語−その4 〜

掲載日時:2008年09月05日

情報提供:株式会社メキシコ観光

前回の話から続く、メキシコが誇る文化遺産「タイルの家」の話の第4話となります。
(前回の話は、下記URLをご参照ください)
 第1話 http://www.otoa.com/home/news_ditail.php?serial=13785
 第2話 http://www.otoa.com/home/news_ditail.php?serial=14056
 第3話 http://www.otoa.com/home/news_ditail.php?serial=14223


前回、ビベロ伯爵がスペイン王に宛てた報告文に、徳川家康を「Emperador Taikosama」と記載していた事について、徳川家康がなぜ「太閤様」になってしまったのか自分なりに推測してみましたが、今回は「征夷大将軍」徳川家康が「Emperador」(皇帝又は天皇)になった訳を考えてみたいと思います。

まず思いつくのは、ビベロ伯爵が天皇の存在を知らされず、最高権力者である徳川家康をヨーロッパ式に「Emperador」という称号で呼んだのではないか、という考えです。ところが史実は違っていたのです。
ビベロ伯爵は2年近く日本に滞在していたのですが、その間、公式行事に来賓として招かれており、天皇と徳川家康の両者を同時に見ていたのです。当然、天皇の存在を知っており、又、徳川家康が常に天皇の一歩後ろにいた事も見逃していませんでした。
それを知りつつ、あえて武家の棟梁である征夷大将軍 徳川家康を「Emperador」と呼んだのはなぜなのでしょう。
これはどうも、スペインのお国の事情らしいのです。

まず当時のスペイン史を紐解いてみましょう。
スペイン王の父王は「カルロス一世」であり、彼は同時に神聖ローマ皇帝「カルロス五世」でもありました。父王は死に際し、神聖ローマ皇帝の座を弟の「フェルナンド一世」に、スペイン王を息子の「フェリッペ二世」に譲っています。
皇帝は諸国の王をまとめその上に立つ者という意味があり、これから判断すると、国王より皇帝の方が上位となるのですが、皇帝には王の様に血縁者外から選ばれてなった者という別の意味もあります。
例えば、古代ローマ帝国の五賢帝(トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝等)には世襲は無く、実力で選ばれて皇帝の座についています。又、砲兵連隊より身を起こしたナポレオンはフランス王ではないけれど、最後はフランス「皇帝」になっています。

「王」が血による継承で「Emperador」が実力による選出だとしたら、徳川家康は「Emperador」という事になるのでしょう。クエルナバカの大聖堂壁画の「EMPERADOR TAICOSAMA」(皇帝・太閤様)は、正に豊臣秀吉にふさわしい呼び方だったのです。
その上、ビベロ伯爵には「王」を「皇帝」より上位にしておきたい理由があったのです。
まず彼が仕えているのはスペイン王であって、皇帝ではありませんでした。もし、日本の天皇を文字通り「Emperador」にし、徳川家康を「王」にしてしまったのでは、スペイン王が下位になってしまうと考えたのでしょう。
天皇に「王」という言葉をあて、徳川家康を「Emperador」にする事により、スペイン王が皇帝より上である事を伝えたかったのではないだろうか。

しかし、それでもまだ疑問は残ります。
徳川家康の正式敬称は「征夷大将軍」、つまり「Capitan general」です。なぜ、この正式名を使わなかったのでしょう。実は知らなかったからという訳ではなかったのです。
現に日本と取り交わした文書には「Shogun」と書かれています。しかし軍部の長を意味する「征夷大将軍」では、家康の偉大さをスペイン王に予測させるのは不可能と感じ、日本の書簡に対しては「Shogun」を、スペイン王向けの書簡には「Emperador」という使い分けをしたと思われるのです。

いつの時代でも敬称の付け方は難しいものですが、特に文化の異なる国の敬称付けは、こんな昔の時代から生やさしいものでは無かった様です。
ビベロ伯爵も、頭を痛めた末、徳川家康を「Emperador Taikosama」と呼んだのでしょうか。
その意図は、本人しか知る由もありません。


その5につづきます。 どうぞお楽しみに!!!



(この記事は、メキシコ国立自治大学 教授 田中都紀代様がご寄稿くださいました)