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エジプト / ドイツ人考古学者がピラミッドの新たな起源説

掲載日時:2004年03月02日

情報提供:エジプト大使館エジプト学・観光局

エジプトの古代ピラミッドは初期エジプトの王室の埋葬から判断して、王の墓の周囲の壁を建造するための副産物であったのではないか、との説がエジプトの王墓専門家から発表されました。
カイロのドイツ考古学研究所のゲンター・ドゥレヤー所長によると、およそ紀元前2650年に最初に建造されたカイロの南、サッカラのジョセル王のピラミッドと、ジョセル王の先祖の一人の墓の構造の類似点から、このような理論に達したと話しています。

階段ピラミッドとして知られているサッカラのピラミッドは、ファラオの玄室の上に高さ約8mにわたって水平な土台が築かれ、その上からユニークなピラミッドの形が造られて来ました。
エジプト南部アビドスで、第2王朝時代のカーセケムウィ王墓より少し前に建てられた王墓には同じ様な水平の土台が玄室の上部中央にあるのがこの説の証拠としてドイツの発掘隊が発見しています。

墓の中央部分の壁は、側面の厚さを2倍にして、高さを半分に圧縮して、かつては重量感がある天井部分が立っていたと、ドゥレヤー所長はロイターのインタビューに答えています。カーセケムウィ王の複合体(コンプレックス)は、その後、数百年に渡りナイル川西岸に沿って建造された数ダースものピラミッドに影響を与えており、その特徴が包囲壁の一つとなっていますと、ドゥレヤー所長は述べています。


■ 創造の土台について:

しかし、アビドスを例に挙げると、包囲壁はサッカラの場合より墓からさらに遠いのです。
「私の理論は以下の通りです。まず、これら水平な土台と壁の2つの要素は、カーセケムウィ王の後継者であるジョセル王によってサッカラで結合され、それから何かが起こりました。墓の天井部は周囲の大きな壁によって隠されてしまい、見えなくなりました。」
「この墓の天井部を、私は創造するための基礎となる土台を表わし、王の再生復活を保証していたのだと思っていました。前記した説と異なることから私にとっても問題でした」とドゥレヤー所長は述べています。

サッカラ複合体の建築は、最初の土台の上に平らな土台を重ね、それを天に向けて繰り返し拡張していくことで階段状にしていき、この問題を解決したのです。
サッカラのピラミッドは、マスタバとして知られている初期に作られた平らな地と近代都市カイロ近郊のギザのピラミッドで見られる滑らかな側面を持つ古典的ピラミッドとの端境期のものです。

考古学者は、ピラミッドはマスタバ式概念の拡張であると長い間思ってきましたが、ドゥレヤー所長の理論は、変遷の説明として包囲壁を加えています。
ドゥレヤー所長は、およそ紀元前3100年の先王朝時代と呼ばれていた頃の南エジプトを支配していた王をここ10年間にわたり研究しており、ハヤブサの姿をしたホルス神、ラー神、メンチュ神などで知られる時代から、今、別の王を識別した、と述べています。

彼は、2個の古代のパレットが彼の理論を裏付けています。
初期エジプト人が儀式に用いた平らな石は、歴史的、神話的なイベントを記録しているように見えます。
2つのパレットは、ドゥレヤー所長が国王の名前が現れるべきである所と説明している所にハヤブサの姿をしたホルス神が見られます。いくつかのパレットは南からの王がナイル・デルタの町を征服した記念であり、後にエジプト統一を図っていく過程を理解するに役立っています。征服の意味しているところは、第1王朝のナルメル王あるいは、その200年後のアハ王のいずれかに伝統的に特徴づけられています。

ホルス王はナルメル王の前のいくつかの世代を征服していました。それは何故?
彼はエジプト人が全てのワインの輸入集荷地としていた、デルタに沿ったパレスチナへの貿易ルートを保護したかったからだと、ドゥレヤー所長は述べています。